雑食オタクの雑記帳

雑食オタクの雑記帳

オタクが文章の練習に好きなことの話とかするブログ。

【感想】モラトリアムの旅路の先に ~『旅する海とアトリエ』の完結に寄せて~

つい先日、『旅する海とアトリエ』(以下海リエ)の最終巻が発売した。

MAX連載陣でかなり推していた作品なのだが、巻数で見ると全二巻という、いわゆる二巻乙となってしまった。きららMAXはアニメ化作品以外はほとんど三巻以内で終わり、二巻完結の作品もかなり多い。そういったなかにもいい作品は結構あるので悪いとは言わないが、海リエはアニメ化も視野に入るポテンシャルがあったと個人的に思っているので、やはりここで終わってしまったのは惜しいというのが本音だ。ただ、海リエが終わってしまったのは海外取材に行けなくなったからという説を見かけて、それなら仕方がないと自分を納得させた。

しかし、話としては実に綺麗に完結していて、旅の内容を膨らませることはあれど、物語の終着点は最初から決めていたんだろうなと思わせた。だから、惜しいのは海ちゃんとりえちゃんがもっとたくさんの国を旅するところが見たかったというところぐらいで、二巻という短さながら物語は申し分ないほど完成している。

 

前置きが長くなってしまったが、今回は海リエに対する所感を書いていこうと思う。記事の趣旨上、ネタバレ全開になってしまうので、それは留意していただきたい。

 

 

『旅する海とアトリエ』の簡単な解説

私の所感に入る前に、簡単に海リエについて解説させてもらおう。

今は亡き両親が名付けた「海」という名前の 由来となった海の景色を探して、 海外旅行初ひとり旅を決行した七瀬海。 ポルトガルで出会った画家の少女・安藤りえと一緒に、 「海」を求めて世界を旅していく中で、 ふたりが出会うものとは…? 第1巻は「ポルトガル・スペイン・イタリア」の3か国を巡ります! 一緒に世界を旅しませんか?

出典:旅する海とアトリエ│漫画の殿堂・芳文社

 今は亡き両親が名付けた「海」という名前の由来となった海の景色を探して、ひとりで海外旅行をはじめた海と、ひょんな出会いから一緒に旅することになった画家のりえ。ふたりの旅はイタリアから、オーストリアクロアチアへと続き、新たな出会いと別れを経て、それぞれの道を見つけていき――。一緒に旅をしている気分になれる、ガールズトリップストーリー完結の第2巻。

出典:旅する海とアトリエ│漫画の殿堂・芳文社

 あらすじにある通り、この作品は七瀬海という女の子が旅先で安藤りえという同じ日本人の女の子と出会い、一緒にヨーロッパを旅するというお話である。行く先々で二人は現地の女の子と出会い、一緒に街や名所を巡ったり美味しいものを食べたり交流を深めるなかで成長していく姿を描いている。また、現地の子が逆に二人の影響を受けて、新たな一歩を踏み出していくことも。

 

主な登場人物は六人。ポルトガルで一緒に旅をすることになった海と高校生画家のりえは、スペインでは写真家のエマに、イタリアではエマの友人でデザイナー志望のマリア、オーストリアではバイオリニストのアンナ、そして最後のクロアチアではアンナとペアを組んでいたピアニストのナタリアと出会う。

それぞれみな個性的で、マイペースで食いしん坊な海、しっかりものだが絵画に目がないりえ、頼れるお姉さんだが百合オタクのエマ、気弱だけど服には情熱的なマリア、猫被りで乙女なアンナ、顔も中身もイケメンなナタリアと端的に書いても文字列から濃さが伝わるんじゃないかと思う。

 

海リエの魅力は大きく分けて二つある。

一つは臨場感あふれる旅行描写。街並みや各地の名所、グルメに至るまで鮮やかなタッチで描かれ、個々の解説も詳細で読んでると本当に海外旅行に行きたくなるようなパワーを秘めている。また、登場人物それぞれのレンズを通して彩り豊かに世界が表現されるのも間違いなく臨場感を生み出すのに貢献しているはずだ。詳しくは後述するが、特に海ちゃんはそれが顕著だと思う。

そして、もう一つの魅力は何かというと登場人物の繊細な心理描写である。世間の評価やいろんなものに振り回されて絵を描けなくなったりえちゃんを始め、丁寧な人物描写がダイレクトにキャラの心情が伝わってくるような力強さを生み出している。海リエを語る上で何より特筆すべきなのは、海ちゃんの素直な感性と洞察力だろう。素直な感性から紡がれる言葉の数々は旅路を豊かに彩り、洞察力はキャラの心情を描くのに大きな役割を果たしている。

その他にもユニークでユーモアのある掛け合いなどコメディ部分も海リエの魅力だが、その辺りはとりわけ文字に起こしても伝わりづらい要素なので割愛する。

 

と、このように軽く解説してみたが、海リエは様々な魅力がギュッと詰まった素晴らしい作品なのだ。私は最終話を読んだときに、ふと一つの言葉が頭に浮かんだ。

それが記事のタイトルにもある『モラトリアム』だった。次の項でモラトリアムと今作の主人公である海ちゃんを軸に海リエから私が受け取ったものを話していく。

 

自分を探すということ

まず、前項で出てきたモラトリアムについてだが、どこかしらで聞いたことはあるのではなかろうか。元々は経済用語で使われていたものを、エリクソンという心理学者が「社会から与えられた自らのアイデンティティを再構築するための時間」という概念として導入したものである(正式には心理社会的モラトリアムと呼ぶ)。

海リエの登場人物はほとんどモラトリアムの渦中にいた人のように思う。自分の名前の意味を知りたくて旅に出た海ちゃん、絵が描けなくなり逃げるように旅に出たりえちゃん、売れてから写真を思うように撮れなくなったエマ、失敗を引きずって踏み出せずにいるマリア、互いを想って苦悩していたアンナとナタリア。その比重に差はあれど、みなが何かしらに悩み、そしてこの物語のなかで答えを見つけていった。

旅は自分を映す鏡みたいだ

出典:旅する海とアトリエ・二巻帯 

 最終巻の帯にもあるように、旅というのは様々な経験を通して自分と対話する時間でもあるのだ。海ちゃんは他のキャラにとって、そんな鏡の一端を担っていたように思う。ナタリアが妹に海ちゃんとりえちゃんの関係性をどう思うかと尋ねられたときに、その関係性を『信仰』と表現したのはかなり印象深い。詩的な表現ではあるが、友達の関係性を喩えるにはいささか異質で難解だと感じられた。どういった解釈が主流か分からないが、信仰はりえちゃんから海ちゃんに対するものではないかという結論に落ち着いた。大げさかもしれないが、りえちゃんにとって海ちゃんは救世主みたいな存在だったように思う。海ちゃんに出会わなければ、りえちゃんは絵を描く楽しみを思い出せないままだっただろうし、周囲の思惑に心を縛られていたりえちゃんを解放できたのは海ちゃんの稀有な人間性があってこそだと思う。

…知らなかったと思いますけど…

わたし、自分の名前が嫌いでこの旅を始めたはずなのに

りえさんに「海ちゃん」って呼ばれるの好きなんです

意味なんてなくていいんです

意味なんてなくても、わたしはりえさんの絵が好きだから

この旅が終わってもずっと、誰かにとって意味のない絵だって描いていいんですよ

今、描きたい絵はなんですか?(海)

出典:旅する海とアトリエ・二巻p81

 この言葉がどれだけ尊いものなのか、読んだ人間にはきっと伝わるはずだ。相手のありのままを受け入れる無償の愛、さらにそれを望む人から与えられるのは至上の喜びだろう。*1

海ちゃんはりえちゃんだけでなく他のキャラに対しても少なからず影響を与えてきた。

 

では、海ちゃん自身はどうだったのだろうか。ここがこの記事の本旨である。

私は海ちゃんが最もモラトリアムに近い人間だったと思う。彼女の経歴は作中であまり詳しく書かれていないが、小さい頃に両親を亡くし、いじめを経験し、22歳で大学や定職についている様子も見られない。おそらくフリーターだったんじゃないかと個人的に思うが、その辺りについて確証を得られるものはないので想像の域を出ない。それでも、海ちゃんが今までの人生を悔やむシーンを見れば、彼女がどういう心境で読者が知りえない空白の期間を送ってきたかは分かる気がする。

初めての旅は海ちゃんにとって数えきれないほど多くのものを知ることができた経験のはずである。しかし、旅の終わりにりえちゃんと二人で大聖堂にいるとき、海ちゃんはこんなことを考えていた。

拝啓 お父様 お母さま

正直に言うと、あの時わたしは旅に出たときよりもたくさんの経験をしていたはずなのに、なぜか自分が空っぽになっていくのを感じていました 

写真の場所さえ見つけさえすれば満足できると思っていた自分の世界が突然狭く見え始めたのです

彼女と違ってわたしには、自分の人生にとって何が大切なものか見当もつきませんでした

わたしは何も知らないと思い知ったとき、あのザグレブの大聖堂のステンドグラスがいやに光って見えました(海)

出典:旅する海とアトリエ・二巻pp93‐94

 海ちゃんはたくさんのことを知ったことで、知らないことがたくさんあることを知ってしまったのだ。それに他の五人と違って、自分のなかに拠り所になるものがなかった。他の五人には肩書があるなかで、海ちゃんだけはまだ何者ではない。それがより彼女を不安にさせたことは想像に難くない。最終話を読んだあとだと、海ちゃんの軸というのは旅を終えた辺りで既に形成されていたように思うが、本人はそれに気づけなかった。

そもそも、七瀬海という人間は前向きなように見えて(ポジティブな一面があるのは事実だが)、おそらく自己評価はかなり低い。帰国するとき、りえちゃんにみなが心を開く人柄を褒められて、「誰でもできますよ」と素っ気ない反応をしていたところからも伺える。この記事内でも述べた海ちゃんの素直な感性と洞察力は得ようと思って得られない素晴らしい才能だが、自分の長所に気づくのは実際難しいので仕方がないのかもしれない。またマリアがシンパシーを感じていたように、海ちゃんは心の深いところには暗いものを抱えていた気がする。それにはいろんな側面があるだろうが、孤独が大きな割合を占めていたように思う。海ちゃんのモノローグから推察するなら、その孤独は友達の数とかではなく、自分だけ何もないという疎外感から生まれたものだ。その感覚は世の悩める若者なら誰もが分かるのではないだろうか。私も例外ではない。

かくして旅に出たことで逆に自信を失った海ちゃんは日本でエマとマリアに再会することになる。二人に何かあったかと尋ねられ、海ちゃんが本音を零すと、二人は悩んでいた海ちゃんの背中を押してくれた。そのときにマリアが言った、

 や、優しいわけじゃないですよ!

海さんには笑っていて欲しいんです(マリア)

出典:旅する海とアトリエ・二巻p108

 という台詞には胸を打たれた。そんなことを言ってくれる友人がいるのは、すごく幸せなことだと思う。

旅に出ていろんなことを知ることで自分の世界の狭さを知り、海ちゃんはその現実に打ちのめされてしまったけど、旅に出なければ辛いときに寄り添ってくれるような友人もできなかっただろう。知ることはときに絶望を生むかもしれないが、何も知らないままでいることの方がきっと不幸だ。この挫折は海ちゃんが前に進む上で、避けては通れない壁だったように思う。

 

そして、最終話。呼び出されてカフェで久しぶりにりえちゃんと会った海ちゃんは、りえちゃんからあるものを手渡された。それはりえちゃんが自分で出すと決心した画集だった。タイトルは『旅する海とアトリエ』。海ちゃんはそれを見つめて静かに涙を流し、大事に抱きしめながら心の中でこう言った。

そのときわたしは初めて地面に

世界に足がついたような気がしたのです(海)

出典:旅する海とアトリエ・二巻p113

 このあとにも長いモノローグが続くが、私はここで海ちゃんを自分なりに理解できたような気がした。たぶん旅を通して海ちゃんは他人の物語の傍観者だったのだと思う。誇れるようなアイデンティティもなく、漫然と生きてきた自分と素直な感性を通して見てきた美しい世界の間に隔たりを感じていた。そんな海ちゃんが、りえちゃんの画集を見て初めて自分もその世界のなかにいる実感を知る。そして、勇気を出してその世界にもっと触れてみたいという思いとともに、六人のなかで最後に一歩踏み出していく。

この物語は海ちゃんが自分のアイデンティティを得るまでの物語だったんじゃないかとしみじみ思った。余談ではあるが、海ちゃんが受験勉強をして大学の史学部に入ったのは、彼女らしい道だとすごく感じた。

それともう一つだけ。作中でたびたびメタキャラのような立ち位置でリスの姿をした海ちゃんの両親が登場する。これを書く上で何度も読み返しているうちに気づいたのだが、その二人が海ちゃんの長いモノローグでコマの外へ去っていく描写があり、もしかしたら海ちゃんが立派になったのを見届けて成仏したのではないかと考えると、ちょっと泣けてしまった。

 

まとめ

以上が海リエに対する私の所感である。

この作品で一番好きなのはやはり海ちゃんだなと、これを書いていて改めて思った。海ちゃんほど過酷な人生を送ってはいないが、共感できるところが多く、また彼女の素直な感性に憧憬の念を抱いてしまった。最初の方にも書いたように、海ちゃんとりえちゃんがもっとたくさんの国を旅するところが見れなかったのは本当に惜しい。北欧とか見てみたかった。

異国の文化に大きなリスペクトを感じられる本作は、海外旅行を題材にした物語のなかで間違いなく名作の部類に入るだろう。ただ、一般的に見れば、きららというジャンルはマイナーな上にアニメ化もしていないとなると、アンテナを高く張っていないと出会うのになかなか時間が掛かるかもしれない。そういう意味では私は幸運だと思った。これをもっといろんな人に知ってほしいような、ほしくないような。そんな風に揺れつつもやはり素晴らしいものはもっといろんな人に知ってもらえるのがいいと思うので、ささやかながらこの作品がもっと広く伝わってほしいと願っている。

*1:敢えて言うことでもないかもしれないが、仮に百合という言葉を使うことはあれど二人の関係性は決して恋愛ではないと思う