雑食オタクの雑記帳

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これは花開く少女たちの物語【ご注文はうさぎですか?BLOOM・感想】

もう三月の半ばだ。多くの学校が卒業式を終えた頃だろう。アニメも改編期に差し掛かり、春期アニメの情報も揃いつつあるので次は何を見ようかと悩んでいる人も多いのではないかと思う。

さて、今回話したいのは数ヶ月前に放送された『ご注文はうさぎですか?BLOOM』(以下ごちうさ三期)についてだ。放送終了時から感想を書きたい書きたいと思っていたが、時間が取れなくて遅くなってしまった。

ごちうさ三期について結論から言うと、最高だった。私もアニメを見始めて結構な年月が経つが、ごちうさ三期はそのなかでも両手の指に入るぐらい最高のアニメであった。

以前投稿した記事ではざっくりとごちうさの魅力を語ってみたが、今回は三期の感想を軸にしつつ、改めてごちうさの素晴らしさについて深く掘り下げさせていただきたい。では本題に入ろう。

 

 

ついに頭角を現した物語の深み

現在、ごちうさはきららを知らない人でも名前を知るほどきららの代表的な作品なわけだが、その評価は専ら「女の子が可愛くほのぼのしてて癒される作品」というもので、ストーリーに関してはあまり評価されていなかった。それどころか「女の子が可愛いだけで内容がなく薄っぺらい」という批判もよく聞くほど、内容という点においてごちうさの評価は低かった。私から率直に言わせれば、それは単にその人がごちうさの真の魅力に気づいていないだけなのだが、とはいえごちうさを擁護する側からしても話の意外性は弱く、起伏に富んだ見応えのあるストーリーを求める客層に合わないのは認めざるを得なかった。

しかし、三期はこれまでとはひと味違った。いままでとはエピソードの密度が段違いなのである。その兆候は『ご注文はうさぎですか??~Dear My Sister~』、『ご注文はうさぎですか??~Sing For You~』のOVAシリーズに既に見られた。遡れば一期や二期も一部のエピソードにその片鱗を覗かせていたが、熱心なファン以外の視聴者をストーリーで引き付けるほどではなかった。

それと比較すると、三期はやはり一話一話のインパクトが凄かった。個人的に一話から十二話まで余すことなく見どころ満載だったが、ネットで感想を見る限り、反響が大きかったのは文化祭、ハロウィン、クリスマス辺りだろうか。どれもごちうさの素晴らしさが集約されたエピソードだが、特にハロウィン(Bパート)はハロウィンという文化本来の意義をエッセンスに描かれた家族愛がとても尊く、素直に心を打たれた。ティッピーの台詞に感極まって強く抱きしめるチノの姿にも掛けがえのない家族の絆を感じさせられたし、ココアとチノの母であるサキの霊が邂逅し、彼女に教えてもらった手品がチノの思い出と繋がる流れは非日常の妙を感じさせる。さらにアニメではハロウィン週間のお店や街の装飾が飛躍的にパワーアップしており、華やかで賑やかな雰囲気が画面に満ちていた。もはやキャラクターを抜きにしてもこの世界に入ってみたいと思わせる魅力が背景美術にあり、これだけでも作品の一つの魅力として独立しているだろう。

もちろん最初に言ったように、ハロウィンだけでなくすべてのエピソードに素晴らしさがあり、各話のテーマも比較的はっきりしているのでこれまでと物語の質が異なっている*1。なぜ三期はキャラの成長や変化が分かりやすくなっているかといえば、三期範囲にあたる二年目*2の夏の終わりから年末年始という期間が将来を意識していく時期だという点がまず間違いなくある。三話のチマメ隊がお嬢様学校の学校説明会に行く話や八話のリゼが進路で父親と喧嘩してラビットハウスに家出してくる話、九話の千夜が生徒会長候補に選ばれる話はダイレクトに将来に関わるものだ。それ以外にも将来を意識するようなシチュエーションが結構存在し、ごちうさはそれぞれがどんな未来を描いていくのか見守っていくという楽しみ方ができる。

ここまで三期の魅力が何に起因しているか、これまでと何が違うのかを大まかに語ってみた。そして、ここからもう一つ三期の内容について踏み込んだ話をしてみたい。それはごちうさの主人公的存在である、チノについてだ。

 

ご注文はうさぎですか?』はチノの成長譚である

ごちうさという作品には最初から一貫したテーマがあるように思う。そのテーマこそがチノの成長だ。

前項でチノをごちうさの主人公的存在と表現したが、一般的にごちうさの主人公はココアとされている。確かにココアが街にやってくるところから物語が始まり、ココアが物語で語り手を担うことも多いので、ココアが主人公であることに異論はないだろう。ただ、ごちうさは表主人公ココアと裏主人公チノのW主人公であることを個人的に主張したい。というのも、ココアとチノは主人公として異なる性質をしているからだ。

ごちうさのテーマとして考えられるのは「友情」「家族愛」「愛郷心*3」などがあると思う。これらの要素は多くの人が持ちうるものであり、作中でも濃淡の差はあれそれぞれがこのテーマを背負っているが、主人公であるココアとチノは作品のテーマから見ても物語の中心に存在している。ココアは「田舎から上京してくる」「新しい街でたくさんの人と出会って絆を深めていく」「モカの影響で姉に憧れておりチノと姉妹のような関係を築いていく」というように分かりやすくテーマに対応した要素を有している。対してチノも「母と祖父*4を亡くしている」「周りの人に支えられて少しずつ成長していく」と主人公らしい要素を備えており、初めに言ったようにチノの成長は作品の主題の一つだと私は思っている。これから本格的にそんなチノの話に移る前に、前述のココアとチノの主人公としての違いを説明しよう。簡単に言うと、ココアは「周りに影響を与えていく主人公」で、チノは「周りの影響を受けて成長していく主人公」だ。無論、ココアにも成長する要素はあるし、チノも周りに影響を与えることもあるが、概ね主人公の特性は直前に記した通りである。主人公における成長という要素の大部分をチノが担っているため、それが作品の主題たりえるのだ。

 チノの成長はごちうさの様々な要素が関わっている。それらを大別するなら「家族関係」「ラビットハウス三姉妹」「千夜・シャロとの看板娘という共通点*5」「チマメ隊」に分けられるだろう。チノは母や祖父を亡くした影響もあるのか、ココアと出会った当初は内向的な性格をしていた。それを伺わせるのが、原作二巻、アニメでは一期九話に当たる『青山スランプマウンテン』という回だ。この回ではチノが青山の万年筆を見つけたティッピーにこんな台詞を送った。

え 私が渡すんですか? それでもいいですけど…

おじいちゃんとティッピーがこうなった理由はよくわかりませんが

内緒にするのって窮屈じゃないですか?

おじいちゃんとしか話そうとしない私の事を思って内緒にする必要はもうないんですよ

だから 励ましてあげてください(チノ)

出典:ご注文はうさぎですか?・二巻p107

 ここでは何故かティッピーが喋らず、チノの台詞も含みのある謎が多いシーンとなっているが、過去のチノがどんな風だったのか少し想像することができる*6

そんなチノだが、作中でゆっくりとだが成長する姿を見せていく。先ほど引用した台詞もおじいちゃん子なチノが一つ大人になった表れだろう。ティッピーとの関係もやはり重要なポイントで、二期十一話にてみんなで山に行くのにティッピーと離れて街の外に出るというのはチノにとって貴重な経験になった。

そしてチノの成長を語るのに外せないのは言わずもがな自称姉のココアである。ごちうさのキャラで圧倒的なコミュ力を誇り、気づけば輪の中心にいるココアは、人見知りで引っ込み思案なチノとは対照的な存在だ。ココアと一緒に過ごすなかで、チノはその影響を受けて成長していく。DMSでは自分からみんなを花火大会に誘い、SFYでは音楽会で合唱のソロパートを見事にやり遂げるなど成長する姿を見せていたが、三期で彼女ははっきりとその変化を見せるようになる。

まず三期では表情が豊かになり無邪気に笑うことが目に見えて増えたのが、これまでと異なる点だ。いままでもドヤ顔や控えめに笑うことはあったが、三期だと年相応の可愛らしい笑顔が多く見られた。私が印象的だったのは八話Aパートで、リゼ特製のスタンプにウキウキして屈託のない笑みを浮かべるチノに初見の際は軽く感動してしまった。他に表情に関連したことだと、六話でチノが頭に乗せたワイルドギースやあんこに合わせた顔芸をしてココアたちをからかう場面も以前じゃ考えられなかった光景だろう。何というかチノに対して保護者目線の感動を感じてしまう。

そして、行動力という点でも三期では成長の証を見せていた。それが顕著だったのは六話にてチノが柔軟で朗らかな接客でお客さんを笑顔にするところと、十話の最後に千夜とシャロへ助けを求めて電話を掛けるところだ。どちらも勇気のいる選択で誰でも決断できるわけではない。以前の内向的なチノだったら尻込みしていたであろう状況だったが、そこで作中の行動が取れるようになったのは間違いなく成長した証拠だろう。

何がチノを成長させたかといえば、それは「みんなとの出会い」と「様々な経験とともに育まれた絆」に違いない。そのなかで最もチノに影響を与えたのが、何度も言っているように紛れもなくココアだ。他のキャラからココアに似てきたと指摘されるくらい、チノはココアの影響を受けて成長している。三期で見せた成長もどことなくココアの姿を思わせるものだ。何より最終話の『その一歩は君を見ているから踏み出せる』という副題はまさしくチノからココアに向けたものであり、チノの成長というテーマが公式から直接示されている。

また、ココアについて一つ興味深いのが、時折チノの亡くなった母であるサキとココアを重ねる描写を見かけることだ。昔チノが作った写真立てに同じ褒め方をしたり、サキが遺した手品セットで手品の練習をしたり、ハロウィンでココアとサキが出会ったのも不思議な縁を感じざるを得ない。また、性格においても明るく茶目っ気のあるところなど二人はよく似ている。SFYにおける回想で幼少期のチノが母のサキに笑顔を見せているのを考えると、同じくチノを隣で笑顔にするココアはもう家族同然の存在なのかもしれない。チノとは違う意味で、やはりココアも主人公たるキャラだと思った。

どうしても言葉で説明しようとすると断片的になってしまうが 、実際にごちうさを見ていけばチノが成長していく様子はしっかり伝わると思う。少なくとも三期のチノが以前と違うことには気づくはずだ。こういった人物描写にも目を向けると、ごちうさは何倍も面白い作品になる。

 

原作の良さを引き出すアニオリ要素

 ここで、ごちうさのアニメ独自の良さについても話したいと思う。私はメディアとして漫画とアニメなら漫画の方が好きなので原作派であることが多く、きらら作品のアニメ化に関しては「キャラに声がついて動く」という程度*7の認識でそれ以上の期待はしていないことが大半だった。

しかし、ごちうさ三期は私の固定観念を見事にぶち壊してくれた。ごちうさのアニメには私の想像を遥かに上回る価値があった。それを構成する要素が三つある。

一つは緻密で精彩な背景美術による魅力的な世界観の演出だが、これは今回の記事で既に触れているので割愛する。

二つ目は脚本の巧みな構成だ。具体的にはアニメで一話を作るのに二つ以上のエピソードを使うのだが、その繋げ方が非常に上手い。三期はこれまでよりエピソードの物語性が強くなったことでそれを強く感じさせられた。

そして、最も重要なのが三つ目、アニメオリジナルのシーン追加である。個人的にアニオリという単語はマイナスイメージの方が強いが、ごちうさのアニオリはすごい。ごちうさのアニオリは間違いなく原作を生かすアニオリだ。その極致が八話のリゼをリゼ父が迎えに来て、帰りの車で話をするシーンである。八話にタカヒロとリゼ父の電話のくだりがあるが、原作ではオチもそのくだりの天丼だった。しかし、アニオリではそこをギャグで流さず、「リゼ父がリゼの将来の夢を聞いて笑ったのは、娘が立派に成長したのが嬉しくて泣きそうになったのは誤魔化したかったから」という文脈が追加されたことで、まったく違う味わいの話に変化したのだ。それだけでなくリゼ父とリゼの会話がちゃんと描かれたことはかなり新鮮で、リゼ父のリゼに対する接し方に父親のリアリティを感じた。初見では大胆なアニオリ展開にド肝を抜かされ、そのクオリティの高さに感じ入ってしまった。もはや別物になっているのに、むしろ原作を補強する役割すら果たしているのがすごすぎて逆に恐ろしい*8。前項で出てきたチノの成長を感じる接客のシーンもアニオリ展開でチノの人物描写を厚くしている。最終話のラストもアニオリだが違和感はなく、アニメの最終回としていい感じに落としたなあと感心してしまった。アニメ制作陣のごちうさに対する理解の深さを感じるばかりである。

 

ごちうさという作品の本質

 ここまで長々と語ってきたが、ごちうさ三期は疑いようもなくシリーズ最高のアニメだ。三期の範囲はいままでの積み重ねが活きている名作エピソードだらけな上に、文化祭・ハロウィン・クリスマスなどを始めとして背景美術が映えるところもたくさんあり、極めつけには秀逸なアニオリで原作を崩すことなく独自性を見せるなど、すべてが上手く噛み合った結果がこれなんだなと感慨を覚えた。

ごちうさの本質とは「日常のきらめき」だと思っている。なんてことのない日常だからこそ、キャラの成長や絆が輝くのだ。

タカヒロよ チノの母は想像していただろうか

作りかけの制服が完成するのを 新しい二色の制服が作られることを

これはあやつが夢見ていた以上の光景じゃ(ティッピー)

出典:ご注文はうさぎですか?・六巻p107

 これはティッピーがクリスマスパーティーでココアたちを眺めながらタカヒロに零した台詞で、ごちうさの素晴らしさを象徴するような台詞だ。

さて、三期はとても素晴らしいアニメだったが、ごちうさ最大の名作エピソードである"アレ"が控えているので、次のアニメ化がいまから待ち遠しい。ありがとう、ごちうさ。ありがとう、ごちうさに関わるすべての人たち。本当に素晴らしい作品を届けてくれて、ありがとう。

*1:あくまで三期が顕著なだけでごちうさはそれ以前も見どころはたくさんある

*2:リゼとチマメ隊の卒業年

*3:主な舞台である木組みの家と石畳の街やココアの故郷、のちに卒業旅行で訪れる大都市などが象徴的に描かれている

*4:ティッピーとして生きてはいるが

*5:看板娘隊というグループが結成されている

*6:ただ、祖父が亡くなったのが物語開始時点から見て去年の話であるのに対し、去年の四月にマヤメグと友達になっているので、ティッピーとしか話そうとしない時期がいつだったのかは不明

*7:それこそ醍醐味だしアニメとして十分すぎるが

*8:ちなみに構成の都合上カットされたところとして原作にはココアとチノがリゼが自分たちの好き嫌いをメモしたノートを読む場面があり、三人の絆をよく感じられて心地いい雰囲気になっている

【ぼっち・ざ・ろっく 感想】青髪ベーシストは本当にクズなのか【山田リョウ】

2月25日、ついに『ぼっち・ざ・ろっく』の三巻が発売した。

今月号のきららMAXでアニメ化も発表され、私もぼざろが次世代のきららを担う作品になるだろうと常々思っていたが、その願望もいよいよ現実味を帯びてきたように思う。アニメ化に際して気になることは山ほどあるので、続報が待ち遠しいばかりだ。

さて、今回は私がぼざろで一番好きな『山田リョウ』について語らせてもらう。このブログを開設した当初から山田に関する話はずっと語りたかったのだが、如何せん山田を語る上で三巻の内容は外せなかったので記事にできずにいた。単行本未収録の範囲の話も別にできなくはないが、せっかくなら三巻が出たタイミングがベストだろうと思い、ここまで温めていた次第である。三巻の全体的な感想は気が向いたら書くかもしれない。

 

※この記事は『ぼっち・ざ・ろっく』1~3巻の既読者向けの記事です

 

 

山田リョウの基本情報

まずは山田がどういう人物であるのか、おさらいしていこう。

記事のタイトルにもあるように、山田は結束バンドのベーシストだ。そして、虹夏ちゃんの幼馴染である。本誌に記載されてる柱のキャラ紹介ではこのようになっている。

クールで孤高なベーシスト。高校三年生。虹夏の親友。

趣味が浮世離れしており、さらに変わり者と言われると喜ぶ。

出典:まんがタイムきららMAX 

 ここではクールで孤高という表現が用いられているが、雰囲気こそクールな感じが出ているものの普段はあまりクールではなく、一ファンの目線ではむしろ愉快な変人という印象が大きい。*1ぼざろにおける一番のギャグ要員は言わずもがな主人公であるぼっちちゃんだが、山田は廣井と二番手を争うほどのギャグ要員だと私は思っている。

一巻の時点でも変人の片鱗は見せていたが、山田がその変人っぷりもといポンコツっぷりの真価を発揮するのは二巻のテスト勉強回からであろう。山田が実はバカであることが発覚し、勉強に没頭しすぎると今度は音楽のことを忘れたり、睡眠学習を信じて寝ながら洋楽を聞いたり、挙句の果てに勉強に熱中しすぎたせいでバンドをやめて東大を目指そうとしたり、狙ったボケとガチの境界線は測りかねるが、とりあえずヤベーやつという印象を文句なしにファンへ植えつけたことだろう。私も山田に一段と深くハマったのは、おそらくこの回がキッカケだった。それ以後、山田の奇行は目立つようになっていく。ちなみにSICK HACKのライブを見に行く回の、山田がドヤ顔で最後列に佇んでいる場面といままでになく流暢にサイケの魅力を語りだす場面が私のお気に入りである。

それと山田に関する評判でよく出てくるのが「クズ」というワードだ。結論から言うと、山田はファンの間で言われているほどクズではないと思う。*2ただ、金にがめつい銭ゲバな気質が見受けられたり、店長の誕生日プレゼントを忘れたり借りた金をなかなか返さないなど物事にルーズだったり、単純に口が悪かったりと、クズに数えられる要素が散見されるのもまた事実である。とはいえ、「バンドマンはクズ」というテンプレと山田リョウを結びつけるのはやはり難しいように感じた。

ここまでが山田に関する基本的な情報だ。山田のキャラクター性は「変人」という一言に尽きるが、しかしその一言に詰め込むにはあまりにも濃い性格をしている。正直これだけでも山田は読者を惹きつけるに十分な魅力を備えている。ぼっちちゃんほどではないが、ギャグパートでは美味しいところを持っていくことが多く、ぼざろの武器であるアクセル全開のギャグに大きく寄与している存在なのは読者なら分かるはずだ。

だが、ここまではいわば今回の記事における前座だ。山田リョウという少女の本質的な魅力に、キャラクターとしての核心にまだ触れていない。本題はここからである。

 

山田リョウ:オリジン

山田リョウ伊地知虹夏

山田を語るにあたって、どうしても外すことのできないキャラがいる。それは結束バンドのドラム担当でありリーダーでもある虹夏ちゃんである。二人は幼馴染であり結束バンドの初期メンバーだ。*3山田と虹夏ちゃんは付き合いが長いのもあり気の置けない仲のようで、山田の側では虹夏ちゃんにはまったく遠慮がなかったり、虹夏ちゃんの側では山田に厳しくなりきれずつい世話を焼いてしまうなど、他の二人と比べると距離感の近さを感じる場面が多い。また、スタンダードなボケとツッコミ同士で漫才コンビな要素もありつつ、ときどき二人揃ってノリのよさを見せることもあり、仲の良さがよく伝わってくる。

しかし、ただ仲がいいだけでは敢えてここで取り上げることはなかったであろう。山田にとって虹夏ちゃんは自らの音楽人生の岐路に立っていた人物、端的に言えば自分の人生を変えた人物であった。その二人の関係性について本格的に掘り下げられたのが三巻であり、それがこの記事の執筆を待っていた最大の理由でもある。しかし、幼馴染である以上に山田にとって虹夏ちゃんが大切な存在であることを覗く場面が実は一巻に存在している。

私 昔は別のバンドにいたんだけど

そのバンドの青くさいけど まっすぐな歌詞が好きだったんだ

でも売れる為に必死になって どんどん歌詞を売れ線にして

それが嫌になったから やめたんだ 

バンドそのものが嫌になっていたところを虹夏が誘ってくれて

「暇ならベースやって!」

もう一度頑張ろうって いまバンドをしてるんだ

出典:ぼっち・ざ・ろっく・一巻p75

 これはぼっちちゃんが作詞をする回で山田がぼっちちゃんに自分の過去を語るシーンだ。ここで虹夏ちゃんがいなければ山田はそもそもバンド活動をやめていた可能性が高い*4ということが明確に分かる。山田が虹夏ちゃんの誘いを受けたこと自体、精神的な変化と切り離して語るのは困難だが、ともかく虹夏ちゃんは山田に直接的な影響を与えている。

 物語が始まる前に山田は人生の岐路を既に経験し、虹夏ちゃんに人生を変えられているのだが、物語のなかで再び山田は人生の岐路に立たされることになる。

 

ベーシスト:山田リョウの本質

さて、山田というキャラの本質が何であるかを語る準備は整った。ここからは読者の山田に対する認識を変えたであろう、山田がスランプに陥る回について話そう。

この話のあらすじを簡単に説明すると、バンドへの責任感でスランプに陥り作曲が上手くいかなくなった山田が結束バンドの仲間に助けられて立ち直るという内容だ。ちなみにこの回で病院を経営する山田の両親が初登場し、過去にバイオリンを習っていたことが判明するなど、実は裕福な家柄のお嬢様という側面も少し掘り下げられた。

この話の鍵となる要素はずばり『音楽へのスタンス』だ。山田のスランプを晴らした四人のセッションのあと、山田は虹夏ちゃんに本心を打ち明けた。

…皆このフェスにかけてるから 結果がダメだったら

皆バンドをやめるんじゃないかって不安になった (山田)

出典:ぼっち・ざ・ろっく・三巻p48

 山田を悩ませていたのは先に書いたように、バンドへの責任感だった。現在、四人がフェスを目指しているのは自分たちの本気を証明するためであり、言い換えれば単なる青春の一ページから実力主義の世界に踏み入れたことになる。そして、ここでいう実力を証明するとは、すなわち世間から認められることに他ならない。

……既に気づいた人もいることだろう。このとき、山田はあの苦い過去に似た人生の岐路に立たされていた。その本音を聞く限り、山田は少なからずバンドに嫌気が差した過去のことを意識していたように思える。このご時世、売れなければ音楽を続けるのは難しいというのは事実で、軽々しく商業主義という言葉で批判していいものではないと思うが、だからといって売れるために自分の個性を捨てるのはアーティストの本分としてどうなのかとも思う。そのバランスは音楽に限らず創作で生計を立てたい、世間から認められたいと望む人間なら誰もがぶつかる壁だろう。それが原因で仲間とすれ違った過去を持つ山田がこういった不安を抱くのは至って自然なことだ。

そして、山田が抱えていた不安を吹き飛ばしたのは、過去に自分を救ってくれた虹夏ちゃんの言葉だった。弱気な言葉を吐いた山田にジャーマンスープレックスかましたあとに放ったのが以下の台詞になる。

 確かにフェスは今の私達にとっては大事だけど

だからって結果が悪いくらいで解散するわけないじゃん!

このメンバーで音楽やってると楽しいからバンド組んでるんでしょ!

これからはちゃんと皆を頼るんだよ バンドなんだから(虹夏)

出典:ぼっち・ざ・ろっく・三巻p48

 ここに虹夏ちゃんの、ひいては結束バンドの根源がある。高みを目指していても決して「皆で音楽をすることが楽しい」という初心は忘れない、そんな精神が垣間見える。実は一巻の回想で山田を結束バンドに誘ったとき、虹夏ちゃんもその前にバンドを解散している。*5虹夏ちゃんがどのように前のバンドで解散に至ったのかは描かれていないが、絶望してバンド活動から退こうとした山田と挫けずに新しいバンドを組もうとした虹夏ちゃんは、私の目には対照的に映る。上記の台詞が自然に出てくる虹夏ちゃんの純粋さに山田は希望を託したのかもしれない、そんな風に思った。

山田リョウの本質とは音楽やバンドにだけは真摯で献身的であることだと考える。ここまで読んでくれた方には山田がどのように音楽と向き合っているのかが伝わっているだろう。違うバンドにいた過去のことや責任感を感じてスランプに陥ってしまったときのことから、山田が音楽に対して人一倍真摯に向き合っているのが分かる。もちろん四人それぞれがバンドに真剣に向き合っているのは言うまでもないが、山田は過去の経験から他の三人とはまた違った視点を持っていると思う。普段のテキトーでふざけた姿と音楽には真面目なギャップが彼女の真の魅力と言えるかもしれない。

虹「でもリョウがそこまで結束バンドの事思ってたなんてね、素直じゃないじゃん。いっつもどうでもよさそうにしてるのに」 

 

リ「そうだよ、知らなかったの?」

 

リ「それじゃさっきのセッション形にしたいからもう帰ってくれる?(ケロッ」

虹「てめ~~~…」

出典:ぼっち・ざ・ろっく・三巻p49

 余談だが、先ほど引用した虹夏ちゃんの台詞のあとにこのやりとりが続くのだが、山田が色付きで強調した台詞と一緒に作中で初めて満面の笑みを見せたとき、私は感動でしばらくそのページを開いたまま硬直してしまった。そのコマの隣に虹夏ちゃんの笑顔が並んでいるのも素晴らしく、私はこの回がぼざろを通して一番好きだ。最後にいつものふざけた感じに戻るのも山田らしかった。

 

青髪ベーシストは本当にクズなのか

最後に改めてこのタイトルに対する私の回答をここに示したい。

 

山田は真のクズではない。

 

やはりこれが私の結論であり、おそらく変わることはない。実際、山田のクズ要素はだらしない点と口が悪い点くらいだ。少なくとも暴力を振るタイプのクズではない。私がこの記事を書こうと思ったのは、単純に好きなキャラである山田について語りたいだけでなく、今後ぼざろが広まっていくなかで単なるクズキャラとしてネタにされる可能性も否めないので、先んじて異を唱えるという意図も含んでいた。確かにギャグだけでも美味しい存在ではあるが、せっかくぼざろを見るのなら深くその魅力を伝えたい。もしこれを読んだときに「そんなこと言われなくても知ってるわ」と思うならそれで構わないし、「そういう見方があるんだ」と思ってくれたなら嬉しい限りだ。

そして、記事を終わる前にこのシーンだけ紹介させてほしい。

虹「ゔっ、みんなごめん…」 

喜「いっ伊地知先輩どうしたんですか⁉」

ぼ「あっ、お腹でも痛いんですか…」

虹「わっ私がちゃんと確認せずに出演を承諾しちゃって皆を散々のせちゃったから…みんな気持ちが萎えちゃったかなって…」どすっ「ぶほっ」

 

リ「何? 思ったようなライブじゃなかったから責任感じてんの? そのくらいで萎える私達なわけないじゃん。ここにいる客を全員ファンにするライブ、してやりゃいいんでしょ」

出典:ぼっち・ざ・ろっく・三巻pp99‐100

 これは三巻の終盤で変な箱のブッキングを受けてしまった責任を感じて泣き出す虹夏ちゃんを山田が励ますシーン*6で、今度は自分の番だとばかりに虹夏ちゃんを力強く励ます山田が本当にカッコよくて大好きだ。この記事を読んだ方に、山田がこんなに魅力的なキャラなんだと伝わったら、それほど嬉しいことはない。彼女が今後どんな活躍をしてくれるのか非常に楽しみだ。

*1:余談だが初期の山田はおっとりした不思議系で現在とは雰囲気が大きく異なる

*2:そもそも山田がクズという風潮が一種のネタかもしれないが

*3:厳密に言えば物語開始時点で逃げ出した喜多ちゃんも初期メンバーに入るはずだったのかもしれない

*4:一人で再起する可能性を完全には否定できないので断定はしないでおく

*5:二巻p22にあるお互いに違うバンドをしていたという記述に基づいている

*6:ちなみに引用中の擬音は山田が落ち込む虹夏ちゃんの頭に手刀をかました音である

古くて新しい日常系の最先端【ぬるめた1巻 感想】

二つ目の記事を出してから二か月が過ぎたらしい。

最近まで忙しく執筆する時間が取れなかったのだが、久々にきららの話でもしていこうと思う。今回のもの以外にも書きたいネタがいくつかあるが、そっちは時間に余裕ができる二月の下旬くらいからぼちぼち書いていく予定だ。

 

さて今回は先月単行本が出た『ぬるめた』について話していく。作者のこかむも先生が元々ニコニコ静画などで連載していたものを設定だけそのまま持ってきて新たに始まった作品である。

おバカ人造人間のくるみ、そのイカれた保護者のちあき、クール系笑い上戸のさきな、唯一の常識人(?)なしゆきは、くるみを改造したり、くるみを猫かわいがりしたり、意味もなく駄弁ったりと、毎日楽しく高校生活を送っています。新進気鋭の次世代作家こかむもが贈る、「きらら4コマ」の新たなる境地!

出典:ぬるめた│漫画の殿堂・芳文社

作品紹介に新たなる境地とあるが、その通り。この作品、かなり異色である。初めて『ぬるめた』を読んだときに他の連載陣と比べると、その異彩がより際立つのではないかと思う。他の作品と何がそんなに違うのか、私は決定的な要素が三つあると考えている。一つずつ説明していこう。

 

 

ぬるめたの驚異的な点その1 解像度の高いキャラクター性

きららは基本的にキャラが最も重要なので、最初はそこに焦点を当ててみよう。

主なキャラはあらすじの通り、人造人間くるみ、くるみの保護者ちあき、ちあきの幼馴染さきな、三人とは高校で知り合ったしゆきの四人で話が回っていくのだが、四人とも一口に語れないくらい個性が強い。性格の根幹はあらすじにある通りなのだが、回を重ねる度に驚異的な勢いで各々に新しい情報が付加されていく。もちろん他の作品もキャラの掘り下げは行っているし不可欠な要素には変わりないが、『ぬるめた』は性質が些か異なるように思う。

ぬるめたのキャラには妙なリアリティが存在するのである。

 『ジョジョの奇妙な冒険』でお馴染みの荒木飛呂彦先生はキャラを考えるときに履歴書のような形式でプロフィールを作成するのは有名な話だが、『ぬるめた』はそれに通じるところが少なからずある気がする。こかむも先生がどのようにキャラを生み出したり話を考えているかは分からないが、『ぬるめた』の四人はちょっとした言動にバックボーンを感じられる。

私がその観点で印象に残ってるのは、「クラスの自己紹介」と「ちあきがゆきの名前を勘違いしていた件」だ。ホームルーム内の自己紹介は各人各様で、特にちあきの冷めた自己紹介は学校行事を徹底的にサボってきたのは伊達じゃないなと思わされた。対して同じく学校行事サボり常連のさきなは熱くも冷たくもなく淡々とした喋りで世渡り上手そうだなと思った。もう一つのゆきの名前に関しては、掛け合いの温度感がないと伝わりづらい気がするので本編から台詞を引用してみよう。

ち「えっ高田の名前ユキじゃないの⁉」

ゆ「えええええええええ⁉ もう知り合ってだいぶ立ちますけど⁉」

ち「いやほらみんな『ゆき』って呼ぶから」

ゆ「えっあれ? そうですっけ、いや友奈さんとか照井くんとか普通に呼んでますよ‼

ち「誰だよ」

ゆ「クラスメートですよ‼

出典:ぬるめた・一巻p88

 これもギャグの一つではあるが、当然のように名前が出てくる辺りゆきは普通にクラスメートの交流があるのが伺えた*1。ただ、ゆきも初登場の際に一年時のクラスでは友達があまりいないことが仄めかされいたので、無粋だがもし敢えてスクールカーストという基準に当てはめるなら微妙な立ち位置にいると思われる。

あとは事あるごとに追加される一言プロフィールもキャラのリアリティに一役買っている。この作品、珍しいことに本誌に載っている柱のキャラ紹介が六話からはそのまま掲載されている。シュールな一言も多いが、そのキャラらしさというのが感じられる。

さきな アホみたいに料理へたくそ。(九話)

さきな 普段はたまに晩ごはんキュウリで済ませたりする。(十話)

出典:ぬるめた・一巻p71,p79

 これなんか好例だろう。さきなのズボラな一面がこの二言だけで浮き彫りになっていく。特に晩ごはんをキュウリで済ませることがあるという具体的な情報は妙なリアリティを象徴している。こういった手法自体は決して斬新ではないが、その手法の活用の仕方が非常に巧みであるのと日常系との親和性が『ぬるめた』に鮮烈な化学反応を生み出しているのだろう。

 

ぬるめたの驚異的な点その2 緩急ある掛け合いの疾走感

次はキャラの掛け合いに目を向けてみる。近年のきらら作品はストーリーにも力を入れている作品が多い印象だが、『ぬるめた』はくるみの改造ネタを除けば女子高生の気ままな日常だけで成立している。もちろん話の軸に据えられる割合の高い改造ネタは後述する独自性を含めて他作品と明確に差別化された個性を確立しているので切り離すこと自体が野暮かもしれない。が、改造ネタもあくまでギャグを展開するための装置であり、物語の目標設定には寄与しない。近年の傾向が日常を描く傍らで物語の目標を進めていく形式なのに対して、『ぬるめた』は完全に一話完結型*2だ。だからキャラの成長という要素がかなり薄い。Web版を読む限り、その路線の余地はあるので今後どうなっていくかは分からないが、現状は純粋に掛け合いの面白さだけで勝負しているような状況だ。*3

その掛け合いは実際どうなのかというと、とんでもなく面白い。

ぬるめたの掛け合いは他に類を見ないほど面白さが突き抜けている。

同誌にも掛け合いが面白い作品はいくつも存在するが、『ぬるめた』は異質が故に掛け合いの魅力が突き抜けているように見えた。『ぬるめた』の掛け合いがすごい所以を語っていくが、型破りに思える部分も多く創作者にとって容易に真似できないであろうものなのは留意していただきたい。

『ぬるめた』の掛け合いを象徴するキーワードは「自然な会話」「前衛的な表現」「ワイドなコマ割り」そして「緩急が生む疾走感」だと私は思った。順番に触れていく。

その一、自然な会話。『ぬるめた』の会話は内容の突飛さは別として、喋り方に現実の我々が友達と話すときに近いものがある。友達の間でその場のノリでテキトーなことを言ったりやったりする経験があるかもしれないが、『ぬるめた』のキャラにはそれが当然のように備わっている。*4作者が放っておいても勝手に喋り出すのではないかと思えるぐらい、キャラが活き活きと存在している。これが小気味よさを生み出す。

その二、前衛的な表現。中身に対して回りくどい言い方をしたが、これは率直に言えば台詞に「w」を使うことだ。これが個人的に際どいと感じるところで、台詞に記号的なものを用いるのは邪道だという通念はいまもあると思う。しかし、『ぬるめた』の方向性には奇妙にもこれが噛み合っている。ただ、これは私が「w」という表現がよく使われていた時代を見ているから馴染み深さを感じているだけかもしれないので、人によっては合わないことも十分ありうる。それでも、これも『ぬるめた』の特徴で魅力足りえる要素だと思う。

その三、ワイドなコマ割り。最近は見せ場で四コマ形式を敢えて崩してインパクトを強めるやり方をしばしば見るが、『ぬるめた』はほぼ毎回ワイドな四コマになってるページが存在する。この演出のいいところはコマの大きさが二倍になることで情報が多く詰められることだろう。台詞の量はもちろん、四人のリアクションを一気に描けることで掛け合いのテンポにも貢献しており、他にも四コマ同じアングルで時間の経過を表現したり銭湯に行く回では洗い場で四人で横並びになるアングルもワイドなコマだからこそできる表現だったりと、いいこと尽くめである。当然いつもの四コマのテンポも大事なので、この辺りの配分が絶妙に感じた。

そして、この三つの要素によって掛け合いに緩急が生まれ、それが中毒的な疾走感へと繋がるのだ。簡単に分析して理論っぽく説明してみたが、類い稀なセンスが成しえるところも少なからずあると思うので、こかむも先生のすごさを感じる。

 

ぬるめたの驚異的な点その3 独特で絶妙なネタのチョイス

前項では掛け合いのすごさについて、その演出いわば外枠を解説したが、今度はギャグの中核を成す改造ネタについて話していこう。

インパクトが大きく』『無秩序』でかつ『不便』‼ これが私がくるみを改造する際の『主義』であり『思想』だ(ちあき)

出典:ぬるめた・一巻p62 

 作中でちあきが改造に対するスタンスを語っている台詞があったので引用した。ちあきの手でくるみに施される改造はすごいけど役に立たない、あるいは使い道が限定的すぎるものしかない。*5

一巻に登場する改造を列挙してみると、

・コンセントを最大百台同時接続ができる

・クラーケンのようなタコ足に変形する

・増殖する(意識は共有しており複製体が消えると各個体の記憶が集約される)

・くるみちゃんスイッチ(ボタンに対応した仕掛けが発動する)

・五次元前頭葉(開いた頭からあらゆる物質を取り出せる)

重油を飲めるようになる(人造人間だから)

・ちぎった腕が小型お掃除ロボット(?)*6になる

アホ毛が感情のレーダーになっている*7

・空腹時にお腹が鳴る

・直立不動で縦に高速回転する

・腕がマシンガン(射撃不可)になる。さらに約三十種のスキンがある

・うなじから第三の手が生える

・ご飯をたくさん食べられるようになる

くるみちゃんスイッチの機能は五次元前頭葉以外省いたが、だいたいこれだけ改造機能が登場している。重油を飲める機能や腕がマシンガンになる機能など字面だけでも面白そうなものもあれば、空腹の話はシンプルなだけに会話の秀逸さが際立っていた。

これらを見ると、『ぬるめた』のアイデアとその活かし方は一級品だと感じさせられる。この系統の作品はきららだと古株である『キルミーベイベー』やMAXで連載中の『いのち短し善せよ乙女』があり両者ともそれぞれの個性があって面白いが、それらとはまた違う味わいがあって良い。こかむも先生は発想力はさることながらネタの引き出しも多そうなので、今後も無類のセンスを発揮したネタと掛け合いが見られることだろう。

ちなみに引き出しの話をすると、サブカル方面は特に厚そうなのが随所から感じられる。セ〇サターンの名前が登場することやさきなが読んでる小説の傾向、Web版に関しては作者の趣味全開という感じがすごいので、サブカルネタが好きな人は尚更ハマること請け合いである。

 

まとめ ぬるめたはすごい

 ここまで私の考える『ぬるめた』の魅力について語らせてもらったが、そういえば記事のタイトルにはまだ触れていなかった。この作品を日常系の最先端と評した理由は散々書いてきたが、古いと評した理由は何なのかと。

それは『ぬるめた』に「物語の本筋が存在せず純粋な雑談だけで話が進行するオールドスタイル」を感じ取ったからである。ここでの純粋というのは特定のテーマがない作品を指しており、部活や共通の趣味がないことを意味している。例を挙げれば『ゆるキャン△』はキャンプというテーマがあるし、『初恋れ~るとりっぷ』なら鉄道がテーマだ。そういった作品たちと比べると、人造人間という特殊な要素こそあるが『ぬるめた』の内容は雑多であり文字通りの雑談である。きらら外だが『らき☆すた』はまさにその類だ。きららだと、ついこの間、画集も発売した『Aチャンネル』は特殊な設定やテーマのない日常系における王道的作品だろう。おそらくきらら黎明期やそれ以前はそういう作品が多かったと思うのだが、『ぬるめた』はそれに近いものを持ちながら挑戦的で新しい要素をたくさん引っ提げているので、「古くて新しい日常系の最先端」という言葉を使わせてもらった次第だ。

既にアクセルベタ踏みでぶっ飛ばしてる感があるのに、これでまだ一巻というのが末恐ろしい。このスタイルを見るにこかむも先生のアイデアが許す限りはサザエさん時空もできそうだし、ゆくゆくはMAXを支える看板作品になる可能性さえ感じている。あとはWeb版から未登場のあの子が個人的に早く来てほしいところだ。何にせよ将来が非常に楽しみな作品である。

 

*1:クラスの女子を名前呼びする照井くん何者だよ

*2:前後編になる場合もある

*3:可愛さはきららの前提条件なので割愛した

*4:11話の寝不足なちあきとさきなのテンションのおかしさなどが良い例だと思う

*5:人造人間としてのスペックは高いのでテストの成績はよかったりする

*6:設定では『も猫』という謎の生命体

*7:さきなに直しなさいよとは言われているが、一応ちあきが施したものかは明言されてない

【感想】モラトリアムの旅路の先に ~『旅する海とアトリエ』の完結に寄せて~

つい先日、『旅する海とアトリエ』(以下海リエ)の最終巻が発売した。

MAX連載陣でかなり推していた作品なのだが、巻数で見ると全二巻という、いわゆる二巻乙となってしまった。きららMAXはアニメ化作品以外はほとんど三巻以内で終わり、二巻完結の作品もかなり多い。そういったなかにもいい作品は結構あるので悪いとは言わないが、海リエはアニメ化も視野に入るポテンシャルがあったと個人的に思っているので、やはりここで終わってしまったのは惜しいというのが本音だ。ただ、海リエが終わってしまったのは海外取材に行けなくなったからという説を見かけて、それなら仕方がないと自分を納得させた。

しかし、話としては実に綺麗に完結していて、旅の内容を膨らませることはあれど、物語の終着点は最初から決めていたんだろうなと思わせた。だから、惜しいのは海ちゃんとりえちゃんがもっとたくさんの国を旅するところが見たかったというところぐらいで、二巻という短さながら物語は申し分ないほど完成している。

 

前置きが長くなってしまったが、今回は海リエに対する所感を書いていこうと思う。記事の趣旨上、ネタバレ全開になってしまうので、それは留意していただきたい。

 

 

『旅する海とアトリエ』の簡単な解説

私の所感に入る前に、簡単に海リエについて解説させてもらおう。

今は亡き両親が名付けた「海」という名前の 由来となった海の景色を探して、 海外旅行初ひとり旅を決行した七瀬海。 ポルトガルで出会った画家の少女・安藤りえと一緒に、 「海」を求めて世界を旅していく中で、 ふたりが出会うものとは…? 第1巻は「ポルトガル・スペイン・イタリア」の3か国を巡ります! 一緒に世界を旅しませんか?

出典:旅する海とアトリエ│漫画の殿堂・芳文社

 今は亡き両親が名付けた「海」という名前の由来となった海の景色を探して、ひとりで海外旅行をはじめた海と、ひょんな出会いから一緒に旅することになった画家のりえ。ふたりの旅はイタリアから、オーストリアクロアチアへと続き、新たな出会いと別れを経て、それぞれの道を見つけていき――。一緒に旅をしている気分になれる、ガールズトリップストーリー完結の第2巻。

出典:旅する海とアトリエ│漫画の殿堂・芳文社

 あらすじにある通り、この作品は七瀬海という女の子が旅先で安藤りえという同じ日本人の女の子と出会い、一緒にヨーロッパを旅するというお話である。行く先々で二人は現地の女の子と出会い、一緒に街や名所を巡ったり美味しいものを食べたり交流を深めるなかで成長していく姿を描いている。また、現地の子が逆に二人の影響を受けて、新たな一歩を踏み出していくことも。

 

主な登場人物は六人。ポルトガルで一緒に旅をすることになった海と高校生画家のりえは、スペインでは写真家のエマに、イタリアではエマの友人でデザイナー志望のマリア、オーストリアではバイオリニストのアンナ、そして最後のクロアチアではアンナとペアを組んでいたピアニストのナタリアと出会う。

それぞれみな個性的で、マイペースで食いしん坊な海、しっかりものだが絵画に目がないりえ、頼れるお姉さんだが百合オタクのエマ、気弱だけど服には情熱的なマリア、猫被りで乙女なアンナ、顔も中身もイケメンなナタリアと端的に書いても文字列から濃さが伝わるんじゃないかと思う。

 

海リエの魅力は大きく分けて二つある。

一つは臨場感あふれる旅行描写。街並みや各地の名所、グルメに至るまで鮮やかなタッチで描かれ、個々の解説も詳細で読んでると本当に海外旅行に行きたくなるようなパワーを秘めている。また、登場人物それぞれのレンズを通して彩り豊かに世界が表現されるのも間違いなく臨場感を生み出すのに貢献しているはずだ。詳しくは後述するが、特に海ちゃんはそれが顕著だと思う。

そして、もう一つの魅力は何かというと登場人物の繊細な心理描写である。世間の評価やいろんなものに振り回されて絵を描けなくなったりえちゃんを始め、丁寧な人物描写がダイレクトにキャラの心情が伝わってくるような力強さを生み出している。海リエを語る上で何より特筆すべきなのは、海ちゃんの素直な感性と洞察力だろう。素直な感性から紡がれる言葉の数々は旅路を豊かに彩り、洞察力はキャラの心情を描くのに大きな役割を果たしている。

その他にもユニークでユーモアのある掛け合いなどコメディ部分も海リエの魅力だが、その辺りはとりわけ文字に起こしても伝わりづらい要素なので割愛する。

 

と、このように軽く解説してみたが、海リエは様々な魅力がギュッと詰まった素晴らしい作品なのだ。私は最終話を読んだときに、ふと一つの言葉が頭に浮かんだ。

それが記事のタイトルにもある『モラトリアム』だった。次の項でモラトリアムと今作の主人公である海ちゃんを軸に海リエから私が受け取ったものを話していく。

 

自分を探すということ

まず、前項で出てきたモラトリアムについてだが、どこかしらで聞いたことはあるのではなかろうか。元々は経済用語で使われていたものを、エリクソンという心理学者が「社会から与えられた自らのアイデンティティを再構築するための時間」という概念として導入したものである(正式には心理社会的モラトリアムと呼ぶ)。

海リエの登場人物はほとんどモラトリアムの渦中にいた人のように思う。自分の名前の意味を知りたくて旅に出た海ちゃん、絵が描けなくなり逃げるように旅に出たりえちゃん、売れてから写真を思うように撮れなくなったエマ、失敗を引きずって踏み出せずにいるマリア、互いを想って苦悩していたアンナとナタリア。その比重に差はあれど、みなが何かしらに悩み、そしてこの物語のなかで答えを見つけていった。

旅は自分を映す鏡みたいだ

出典:旅する海とアトリエ・二巻帯 

 最終巻の帯にもあるように、旅というのは様々な経験を通して自分と対話する時間でもあるのだ。海ちゃんは他のキャラにとって、そんな鏡の一端を担っていたように思う。ナタリアが妹に海ちゃんとりえちゃんの関係性をどう思うかと尋ねられたときに、その関係性を『信仰』と表現したのはかなり印象深い。詩的な表現ではあるが、友達の関係性を喩えるにはいささか異質で難解だと感じられた。どういった解釈が主流か分からないが、信仰はりえちゃんから海ちゃんに対するものではないかという結論に落ち着いた。大げさかもしれないが、りえちゃんにとって海ちゃんは救世主みたいな存在だったように思う。海ちゃんに出会わなければ、りえちゃんは絵を描く楽しみを思い出せないままだっただろうし、周囲の思惑に心を縛られていたりえちゃんを解放できたのは海ちゃんの稀有な人間性があってこそだと思う。

…知らなかったと思いますけど…

わたし、自分の名前が嫌いでこの旅を始めたはずなのに

りえさんに「海ちゃん」って呼ばれるの好きなんです

意味なんてなくていいんです

意味なんてなくても、わたしはりえさんの絵が好きだから

この旅が終わってもずっと、誰かにとって意味のない絵だって描いていいんですよ

今、描きたい絵はなんですか?(海)

出典:旅する海とアトリエ・二巻p81

 この言葉がどれだけ尊いものなのか、読んだ人間にはきっと伝わるはずだ。相手のありのままを受け入れる無償の愛、さらにそれを望む人から与えられるのは至上の喜びだろう。*1

海ちゃんはりえちゃんだけでなく他のキャラに対しても少なからず影響を与えてきた。

 

では、海ちゃん自身はどうだったのだろうか。ここがこの記事の本旨である。

私は海ちゃんが最もモラトリアムに近い人間だったと思う。彼女の経歴は作中であまり詳しく書かれていないが、小さい頃に両親を亡くし、いじめを経験し、22歳で大学や定職についている様子も見られない。おそらくフリーターだったんじゃないかと個人的に思うが、その辺りについて確証を得られるものはないので想像の域を出ない。それでも、海ちゃんが今までの人生を悔やむシーンを見れば、彼女がどういう心境で読者が知りえない空白の期間を送ってきたかは分かる気がする。

初めての旅は海ちゃんにとって数えきれないほど多くのものを知ることができた経験のはずである。しかし、旅の終わりにりえちゃんと二人で大聖堂にいるとき、海ちゃんはこんなことを考えていた。

拝啓 お父様 お母さま

正直に言うと、あの時わたしは旅に出たときよりもたくさんの経験をしていたはずなのに、なぜか自分が空っぽになっていくのを感じていました 

写真の場所さえ見つけさえすれば満足できると思っていた自分の世界が突然狭く見え始めたのです

彼女と違ってわたしには、自分の人生にとって何が大切なものか見当もつきませんでした

わたしは何も知らないと思い知ったとき、あのザグレブの大聖堂のステンドグラスがいやに光って見えました(海)

出典:旅する海とアトリエ・二巻pp93‐94

 海ちゃんはたくさんのことを知ったことで、知らないことがたくさんあることを知ってしまったのだ。それに他の五人と違って、自分のなかに拠り所になるものがなかった。他の五人には肩書があるなかで、海ちゃんだけはまだ何者ではない。それがより彼女を不安にさせたことは想像に難くない。最終話を読んだあとだと、海ちゃんの軸というのは旅を終えた辺りで既に形成されていたように思うが、本人はそれに気づけなかった。

そもそも、七瀬海という人間は前向きなように見えて(ポジティブな一面があるのは事実だが)、おそらく自己評価はかなり低い。帰国するとき、りえちゃんにみなが心を開く人柄を褒められて、「誰でもできますよ」と素っ気ない反応をしていたところからも伺える。この記事内でも述べた海ちゃんの素直な感性と洞察力は得ようと思って得られない素晴らしい才能だが、自分の長所に気づくのは実際難しいので仕方がないのかもしれない。またマリアがシンパシーを感じていたように、海ちゃんは心の深いところには暗いものを抱えていた気がする。それにはいろんな側面があるだろうが、孤独が大きな割合を占めていたように思う。海ちゃんのモノローグから推察するなら、その孤独は友達の数とかではなく、自分だけ何もないという疎外感から生まれたものだ。その感覚は世の悩める若者なら誰もが分かるのではないだろうか。私も例外ではない。

かくして旅に出たことで逆に自信を失った海ちゃんは日本でエマとマリアに再会することになる。二人に何かあったかと尋ねられ、海ちゃんが本音を零すと、二人は悩んでいた海ちゃんの背中を押してくれた。そのときにマリアが言った、

 や、優しいわけじゃないですよ!

海さんには笑っていて欲しいんです(マリア)

出典:旅する海とアトリエ・二巻p108

 という台詞には胸を打たれた。そんなことを言ってくれる友人がいるのは、すごく幸せなことだと思う。

旅に出ていろんなことを知ることで自分の世界の狭さを知り、海ちゃんはその現実に打ちのめされてしまったけど、旅に出なければ辛いときに寄り添ってくれるような友人もできなかっただろう。知ることはときに絶望を生むかもしれないが、何も知らないままでいることの方がきっと不幸だ。この挫折は海ちゃんが前に進む上で、避けては通れない壁だったように思う。

 

そして、最終話。呼び出されてカフェで久しぶりにりえちゃんと会った海ちゃんは、りえちゃんからあるものを手渡された。それはりえちゃんが自分で出すと決心した画集だった。タイトルは『旅する海とアトリエ』。海ちゃんはそれを見つめて静かに涙を流し、大事に抱きしめながら心の中でこう言った。

そのときわたしは初めて地面に

世界に足がついたような気がしたのです(海)

出典:旅する海とアトリエ・二巻p113

 このあとにも長いモノローグが続くが、私はここで海ちゃんを自分なりに理解できたような気がした。たぶん旅を通して海ちゃんは他人の物語の傍観者だったのだと思う。誇れるようなアイデンティティもなく、漫然と生きてきた自分と素直な感性を通して見てきた美しい世界の間に隔たりを感じていた。そんな海ちゃんが、りえちゃんの画集を見て初めて自分もその世界のなかにいる実感を知る。そして、勇気を出してその世界にもっと触れてみたいという思いとともに、六人のなかで最後に一歩踏み出していく。

この物語は海ちゃんが自分のアイデンティティを得るまでの物語だったんじゃないかとしみじみ思った。余談ではあるが、海ちゃんが受験勉強をして大学の史学部に入ったのは、彼女らしい道だとすごく感じた。

それともう一つだけ。作中でたびたびメタキャラのような立ち位置でリスの姿をした海ちゃんの両親が登場する。これを書く上で何度も読み返しているうちに気づいたのだが、その二人が海ちゃんの長いモノローグでコマの外へ去っていく描写があり、もしかしたら海ちゃんが立派になったのを見届けて成仏したのではないかと考えると、ちょっと泣けてしまった。

 

まとめ

以上が海リエに対する私の所感である。

この作品で一番好きなのはやはり海ちゃんだなと、これを書いていて改めて思った。海ちゃんほど過酷な人生を送ってはいないが、共感できるところが多く、また彼女の素直な感性に憧憬の念を抱いてしまった。最初の方にも書いたように、海ちゃんとりえちゃんがもっとたくさんの国を旅するところが見れなかったのは本当に惜しい。北欧とか見てみたかった。

異国の文化に大きなリスペクトを感じられる本作は、海外旅行を題材にした物語のなかで間違いなく名作の部類に入るだろう。ただ、一般的に見れば、きららというジャンルはマイナーな上にアニメ化もしていないとなると、アンテナを高く張っていないと出会うのになかなか時間が掛かるかもしれない。そういう意味では私は幸運だと思った。これをもっといろんな人に知ってほしいような、ほしくないような。そんな風に揺れつつもやはり素晴らしいものはもっといろんな人に知ってもらえるのがいいと思うので、ささやかながらこの作品がもっと広く伝わってほしいと願っている。

*1:敢えて言うことでもないかもしれないが、仮に百合という言葉を使うことはあれど二人の関係性は決して恋愛ではないと思う

ごちうさにおける作品の中身について

ごちうさ三期が絶賛放送中の今日この頃、よく巷で「ごちうさは中身がない」という台詞をよく聞く。ごちうさに限らず、きらら系列の作品は中身がないと言われることがしばしばある。

 

ごちうさに中身を感じない人はたくさんいるだろうし、ごちうさのファンである私からしてもそう感じる人がいるのも別段不思議ではないと思う。

 

ただし、ごちうさに中身がないというのは間違いだ。それに気づかない人がいるだけでしっかりある。ということで、ごちうさの中身とは何たるかを書いていきたいと思う。あくまで筆者の雑感なので悪しからず。

 

 

中身の定義

 よく中身の定義としてストーリー性やメッセージ性、エンタメ性など挙げられる印象がある。

最近のそういった作品の中だと『ゴールデンカムイ』や『メイドインアビス』『リゼロ』、『呪術廻戦』が私は好きだ(チョイスがなんか偏っているのは目を瞑ってほしい)。

いずれもストーリー、キャラ、設定、戦闘・情景描写など何かしら強烈に見る者を惹きつける要素があり、見応えのある刺激に溢れた作品である。世間一般でいう中身のある作品というのはおそらくそういうものだ。

 

その観点で見るなら、ごちうさに中身はない。

 

ごちうさは基本的にココアたちの何てことのないささやかな日常を描くだけで、大きな事件が起こるわけでもなく、分かりやすい刺激のある作品ではない。だから、ごちうさを退屈と見る人がいるのは当たり前だ。それで見るのをやめる人がいても、無理に引き留めようとは思わない。しかし、それはその人に合わなかっただけであり、中身がないということには繋がらない。

 

では、ごちうさにおける中身が何かと言えば、「キャラクター」。それに尽きる。

「キャラクター」といっても可愛さに限らない人間的魅力の話だ。もちろん可愛さは不可欠だが、決してキャラの魅力は表面的なものではない。なので、その辺りについて軽く話していく。

 

ごちうさにおける「キャラクター」の比重

 ごちうさにおいて「キャラクター」はある意味、作品のすべてである。ぶっちゃけ、キャラに惹かれないなら見る意味はあんまりない。多少興味のないキャラや嫌いなキャラがいても視聴する価値のある作品もあるとは思うが、ごちうさにそれはない。何故なら視聴するモチベーションも九割以上キャラが占めているだろうし、少なくとも序盤にはストーリーの続きが気になるという求心力はないと考えているからだ。

大体ごちうさを見てるのは女の子キャラが好きな人だろう。ほとんどみんな入り口はそこである。そして、ここで二種類の人間に分かれると思う。

 

ごちうさに中身がないと考える人と、そうでない人だ。

 

癒しを求めて、ごちうさを見ている人はたくさんいるだろうし、もちろんどんなスタンスのファンでもごちうさは癒しの存在だと思う。しかし、ここで頭を使わないで見れる作品として楽しむ人とそうでない人で分かれる。前者が悪いとは言わない。難しい話もストレスを感じる展開もなく、頭を使わないで"も"見れるのは、ごちうさの魅力の一つだ。だが、個人的にそれだけではもったいなく感じてしまう。自分の楽しみ方を他人に強要など絶対にしないが、興味があるならその先も知ってほしいとささやかながら思うのだ。

 

なので、ここからは私が考えるごちうさの「キャラクター」の魅力が何であるかを話していこう。

ここでいう「キャラクター」とは主に三つの要素を内包している。

  • 可愛さなどキャラに最初から備わっている魅力
  • キャラの関係性の変化
  • キャラの成長や新たな魅力の発見

とりあえず一つずつ話していく。

一つ目についてだが、これは言うまでもない気がする。ごちうさファンの誰もが享受している。可愛さに関しては、これがないとジャンルとして始まらないのは事実だ。登場時からみな魅力的でキャラもそれぞれ立っていると思う。それでも、ここは入り口に過ぎない。きららというジャンルすべてに通ずるのが、「積み重ね」の重要性だ。それが残り二つの要素へ密接に繋がってくる。

 

二つ目の「キャラの関係性の変化」は文字通りの変化と新たな関係性の発生の二つを含む。日常を送るなかで起こるちょっとした出来事で、意外な繫がりが生まれたり、関係性が深まったり、そんな風にごちうさはココアやチノたちの友情を描いている。

新たな関係性の発生もやはり醍醐味で、メイン7人もこれまでいろんな組み合わせの話がある。『リゼとチマメ隊』なんか分かりやすい例で、『ココア・千夜・シャロ』の同級生組や『千夜・チノ』の看板娘コンビなど、言うなれば化学反応がたくさんあり、キャラが好きであるなら見ていて飽きないのではないだろうか。ちなみに私が好きなのは同級生組と『ココア・チノ・リゼ』のラビットハウス三姉妹である。既に放送された三期一話のお店の夏服を作るお話は名作エピソード。

 

三つ目の「キャラの成長や新たな魅力の発見」は関係性と相互作用にあり、ごちうさ、いやきららというジャンルにおいて最も重要な要素で生命線といっても差し支えないほどである。キャラが可愛いだけだの平凡だの退屈だの中身がないだの、そう言う人は大概これに気づいていない。じっくりとではあるが、ごちうさは確実にキャラの成長を描いている。確かに派手さや刺激には欠けるかもしれないが、彼女たちが成長し少しずつ大人になっていくさまは心を打たれるものがある。そして、キャラが見せる新たな一面は花開くように日常に彩りを与えてくれる。

成長という点で最も明確なのはチノだろう。引っ込み思案で寡黙だったチノがココアや他のみんなの影響で少しずつ変わっていくのが端々から感じられて、見ている側も温かい気持ちになっていく。またティッピーとの関係性も絡めて見ていくと、もっとチノの成長が分かりやすくなるかもしれない。

 

こう話してきた通り、ごちうさにとって中身とはすべて「キャラクター」に直結している。だから、キャラが好きになれなければ見る価値はあまりないと言わせてもらった。どのくらい深みにハマっているかで評価が大きく変わってくるのは間違いない。

 

それと実は「キャラクター」以外にごちうさにはもう一つ大きな魅力がある。それは世界観だ。

 

ごちうさの異国情緒あふれる世界観

物語の舞台は『木組みの家と石畳の町』と呼ばれるところで、フランスの市街がモデルになっている。その割には甘兎庵という和菓子屋が出てきたり、いろんな地域の文化が混じっていたりするものの、とにかくお店の名前以外は固有名詞が出てこず現実から隔絶されているので、どこかファンタジーな空気が味わえる。また、シストやブロカントなどヨーロッパの文化を作品に取り入れているのも、この世界観により没入感を与えてくれているかと思う。異国情緒に弱い人は間違いなく刺さるはずだ。実際、私にも刺さった。アニメでも背景美術にかなり力が入っているので、それに着目して見るのも面白いだろう。

 

これが「キャラクター」との相乗効果で爆発的な魅力を生むのだ。

 

まとめ

以上が私の考えるごちうさの中身もとい魅力だ。

「思考停止して見ても面白いし、しっかり見ても面白い」というのが私の結論である。また専門外ではあるが、ごちうさはキャラソン含めた楽曲数がえげつないくらい多く、その中身について考察しているファンも少なからずいるので、そこにもキャラクターの魅力が描かれているはずだ。

アニメ三期はこれまでよりグッとキャラの成長や関係性の深まる場面が増えるので、OVAまで追ってきたファンには見応え大だと思う。もしかしたら泣く人も出てくるかもしれない。それぐらい素晴らしい物語だ。

最後に原作を読んでいないのであれば、私はぜひそちらも薦めたい。作者のKoi先生が描き出す日常の煌めきは、アニメとは大きく質が異なる。かくいう私はどちらかといえば原作派だ。アニメから原作に入ると、また違った視点でごちうさという作品の魅力に気づくかもしれない。ごちうさはあなたが思っているより奥深い作品なのである。